世界の裏側。 未知の世界から知ってる世界へ。 疑問が納得へ。そんな、そこのところ。

むやみやたらにそこのところ。

実体験の世界のそこのところ。プロフ記載

理解についてのそこのところ。

よく「理解と納得は違う」と言われた事があります。

これは自分の人生で深く思った言葉

同性愛への理解と納得

チャットレディへの理解と納得

精神病の人間を支える側への理解と納得

精神病への理解と納得

自閉症への理解と納得

 

最近の話で、私には自閉症の従兄弟がいます。年齢はもう成人して、言葉は通じず、満腹中枢がなく…「ここまで」と言わないと吐いても食べ続けてしまう。

会話も出来ない、けれど暴れてしまう。

向き合っても受け入れようとしても、言葉さえ伝わらない。

男性なので力も強く、けれど力の加減も解らない。

彼が私に対して何を感じているかも、私を認識しているのかさえ解らない。

 

自閉症とは、自分の心を閉ざすと書いて自閉症

彼の周りは理解と納得以前の世界。

 

先ず、関わろうとしない周りの人。

既に彼に対して人間的なものを諦めている親。

彼を憎む兄弟達。

 

私はその光景を見て、理解と納得以前に疑問さえ諦めてしまった周りと…理解をされないまま生きている事さえも周りが全否定する状況。

それが解らない彼。

 

理解と納得は別物。

 

先日、私の伯母にあたる方が「私は自由になりたい」と離婚届けを出して消えてしまった。

自閉症の子を抱えている母親は周りから煙たがれ、田舎だから「障害にみんな理解がないのよね」…と口にする周りだが関わった事のない人からするとそれ以前の問題。

綺麗事はナイフの様だ。

優しくされても不審になる、常にナイフで切られてきた人

伯母の最後の結論は「理解されないのならその対象を捨てる」という簡単な事だった。

 

伯母は「悔しい時しか涙が出ない」気の強い人間である。

そして、どこか浮世離れした雰囲気を持ち掴めない。今回、消えた事を知らない周りは「耐えられなかったのだろう」そう同情するか、批難するか

 

伯母の結論は計画的なものだった。

高額の生命保険、高額の国からの援助、親権、ローン完済

 

元々、育児をしない女性

子供を放置し、一つ握り飯を渡すと3日も帰らない。伯父はタクシーの運転手なので不定期。伯母だけではなくその伯母に入れ込んで全て許す伯父にも問題はあった。

 

犬が欲しい、イグアナが欲しい、蛇が欲しい、うさぎが欲しい…頻繁に生き物を買ってきては叔母は3日で飽きてしまう。その為に悲惨な死を迎えた生き物を親族の自分さえ数え切れない。

 

人間に対して、ましては実の子に対して伯母は既に「飽きて」いたのを誰を消えてしまう迄、信じたくなかった。

そう語るのは伯母の表面しか知らない人だ。

私は距離が遠く、滅多に伯母と会わないがこの女性に嫌悪感を抱いていた1人。

話す言葉が掴めないのは、言葉が生きてないから。話す言葉全てが「此処にいない」……実際に会話が成り立たないのは話す意思が無く伯母は意味深に笑うだけで、それに子供ながらゾッとしていた。

 

伯母の話はまた綴るとして

 

計画的なものだった、と言うのは

自閉症の彼が困らない為に貯めていた貯蓄、そして持ち家の完済、国からの援助、単刀直入に…完済が終わると同時に離婚をし完済したその家を奪って売ること、貯めていた貯蓄や保険は嘘であり高額の金額が伯母の口座に入っていたこと、伯父が生活を助けなかったと障がい者の母親として裁判をを起こし、裏で男がいた。

 

伯母は「理解」の言葉すらない女性だったこと。

 

自閉症の親と言う「可哀想」と名が付くアクセサリーを持ち

彼に対して母親になれなかった。

 

理解とはなんだろう

 

問いかけ

頭で反芻し

それでも、

 

 

私は伯母の行動を「あの人ならば納得」とあっても「理解」はしていないのです。

 

 

自閉症の彼は母親が消えた事も「理解」出来ない。

 

理解とは……認めることかもしれない。

疑問に対してのそこのところ。

疑問を抱いたらすぐに調べられる様になったネット社会。

とても有り難く、また怖いものです。

私は「便利」が1番怖いものだと思います。人は不便を省く為に知らなければいけない道を近道してしまう。

そうすると幾多の疑問が生きている中で起きてしまう

人には聞けない、人が知らない、どうしたらいいの?

そんな疑問がたくさん現れます。

効率良く生きていく前に、どう生きていくか、次の「疑問」に対して自分の言葉で人が納得し、それが繋がるか

 

連鎖反応です。

私の納得は私の尊敬する方々から得た、理解。

疑問を言葉にして、嫌われないか。

疑問を言葉にすると馬鹿にされないか。

 

 

解らないと、簡単には口に出来ないような現代で、信頼が出来

答えてくれる、応えてくれる

そんな人に巡り会うのは奇跡です。

 

空白の答えは様々な形をしてそこらに転がっていますが、納得出来るまで。

理解と言えるまで。

 

その間こそ長くて険しい。

ネットはこんなに広いのに、ネットが答えてた、応えた事の正解という信憑性は?事実性は?

このブログもまた、1つの例。

例が多ければ多いほど、役立つ。

 

たくさんの疑問にはその何倍の納得があるのです。

言葉の大事さを感じます。

私が今以上に浅はかだった時に、そんな人間を無視せず一つ一つ返った言葉の暖かさと鋭さは、今も私の中で生きて、生かしていけています。

 

疑問は恥ずかしくない。

そう思えた時、応えてくれた方々は

 

自分達も納得や理解まで長く

それでも、自分の道を見付けた時。

 

私も、その方々も、

納得以上に安心したのです。

 

 

 

 

疑問から納得のそこのところ。

こちらに移転してブロガー歴は10年目になります。

様々な事を綴り、日々読者様に多く相談を受けてきました。

疑問、人には聞けない、普通なら知らない、だから知れない。

少しの経験が明日の糧になります。

前ブログ同様に知られていない世界を、マイナスイメージの納得よりプラスイメージの納得をしてもらえるように努め、心得ているのですが、自己解釈の自己満足。

私は正解ではありません。

不正解でもないのです。

手探りで未知の世界を歩く時に、小さな納得と知識が仄かな光になれば幸いです。